たれながし

なんかあれだ、ダダ漏れとかそんなレベルじゃない、なんか色々ヤバイ、マジヤバイ

精神が成熟しないことと、背伸びしないこと

唐突ですが私、まったく一般文芸と呼ばれる作品を読みません。ちなみにここでいう一般文芸とは、本屋でよく言われるライトノベルや海外翻訳以外の一般向けの小説全般のことを指します。いや正確には何度か読んだことはあるんですが、何だかの形でアニメ化されたりマンガ化されたり元々ラノベだったりと私が手に取る作品は、手に取って読んだ作品が一般文芸だと思っていても、そのだいたいはオタ気質があるものなのかと絶望したりします。


例えばまず真っ先に思い浮かぶのが清涼院流水で、コズミックを手にとって読んだのですがその後マンガ化しました。まぁこれぐらいなら偶然かなと思い京極夏彦で、今度は魍魎の匣を読んだのですが、これはだいぶ後にですがアニメ化しました。更に森博嗣のすべてはFになるを手に取ったらその後何故かマンガ化、更に更には西尾維新を手に取り戯言シリーズの最初の巻を手に取ったんですが、この前に気付けば良かったのに、講談社ノベルズの作品群が巷では何故かライトノベルに該当するのだと気付いたのがこの頃。そしてこの頃を境に講談社ノベルズの作品群を読まなくなっていました。いや別にこのことが理由ではないけど……単純に趣味が読書方面からアニメ方面へとシフトしたってだけですが。それからも手に取った作品が元々はラノベだったりみたいなことがありましたが、先日の氷菓のアニメ化でとうとうトドメ刺されたって感じですかね……


いや何がショックって、手に取った作品のほぼ大半が何だかのライトノベル属性があるってことでしょうかね。お前ライトノベルじゃないと読めないのかよみたいなコンプレックスは、昔ほどでは無いにしろ正直結構でかくて未だにオタ属性無い作品を手にとって読んでも、その作品を楽しめない読める作品じゃないってのは、結構コンプレックスに感じますね。


で、そのコンプレックスの根本にあるのが「精神が成熟しないこと」ですかね。もういい歳なんだから精神的にも落ち着いて来て良いはずなのに、まったくその気配すら感じない。でも流石に「もう今じゃこいう作品楽しめないな」みたいなややエロ系ライトノベル作品があったりして、ああ今精神が成熟してきてるのかな……と思いきや実は昔からガチガチの戦闘系ライトノベルばかり読んでて、むしろややエロ系ライトノベルって昔から苦手やったやん直撃世代だったのにあかほりとか全然読んでないお前みたいなノリですよ。何これどうなってるの!?


しかしながらこんなアホなコンプレックス自体、正直「成熟という名の呪い」だというのは頭から分かっているのです。昔の人々が成長戦略という名の人々が発展性を求める為にしかけた呪いに近いものだということも。そしてそれがバブルの崩壊と共に脱構築されつつあるということも。何だろうなー、おっさん臭さみたいなのが今後脱臭されることもあるのだろうなーと思いつつも、ユートピア主義者がいうような成長の先にホントにユートピアがあるのかい? って感じで、結局は成熟とか成長とか嘘だったんですよマジで。


まぁアホなコンプレックスやらユートピアやらディストピアやらはもういいや、ディストピア飽きた。その点でいえば成長戦略無しの先にでもユートピアがあって良いじゃないみたいな逆説をやった日常系はえらいなー……ってどんどん話が脱線していってるじゃないか!?


そこで11月15日からの虚無主義→没落の流れから分かったのですが、無理に成熟して引き延ばしてぶっ壊れるよりは、背伸びしない方がいいんじゃないの? ってことですね。

ごく普通のたれながし

「ブログをはじめました!」から結構日数が経過したけど、しかし、まぁ、思ったより書く事が無い。主に自分が書きたい自分の考え方、というのを主に書いていくつもりではあったんだけど、何というかそれにも限界がある。理由はまず、自分が何を書きたいのか? というのを真っ白なテキストエディタ(実際には薄い茶色に設定してはありますが)に向かって考えないといけないんだけど、0から1にするこの作業ってのが実は一番苦痛だったりする。書き始めればあとはすらすら出てはくるのだけど。


そういえば少々誤解をされている方もいるかもしれないけど、別に私自身が虚無主義者になったからといっても、実際のところ「すべては本質的には意味がない」と思ってるだけであって、じゃあそこからどうするのかと考えると、実際過去も未来よりも今を生きるべきだと考えるわけで、背伸びしたり、無理をしたり、どこかしらまだ抜けてなかった上昇志向について完全に諦めただけの話。考え方も無理に長生きをしようとして無理をするより、寿命が縮もうが刹那的に楽しいことをやって生きたいというだけの話。


いやー、何というかもうちょっと自分の中の脱構築というか、押しつけがましいクソッタレな同調圧力的な価値観から脱出して、一人光沢がない眼で世間を見つめたいなーと思ったり。その為には「菊と刀」と「道徳の系譜」を読んで、自分の中の「日本的な価値観」の脱構築を完成させないといけないと思ったり。



あとは、うーん、なんだったかな? 徹底的に価値観を破壊することばかり考えても、どうどうめぐりでそればっかりになってしまうような気がする。次は何か違うネタで書きたいね。

迷うこと、迷わないこと、道はただひたすら続いていくこと

すべてを懐疑し、すべてを無価値とし、それから再構築する。それが思考の旅である。私の旅はまだ始まったばかりだ。迷うこと、迷わないこと。迷わないことの繰り返しが老化に繋がるのも真だが、流石にどうでもいいことに一々心迷わされたくない。



唐突ですがたまゆらというアニメをご存じでしょううか? このブログはたれながしなので、ある話をしている途中なのに別の話に切り替わっていてもおかしくはないのですが、それは置いといて、たまゆらの登場人物の中にかおるという子がいる。通称かおたん、本人に向かってその愛称を使ったら何故か怒る。趣味はポプル作り、気立てが良く周りのことをよく気遣う子ですが、10話においては少々違いました。


前振りが長くなってしまったので単刀直入に言いますと、彼女は今の趣味であるポプル作りがこれから先も続けられるか? 本当に自分が好きな趣味なのか? そういうことを悩んでいた。そして友達のメールを見る内に、みんなその道の途中であることに気付く。友達からも迷ってもよいということ、そして自分達もかおたんと同じように悩んで、そしてまたそれでも自分なりの答えを見つけて、また進んでいこうとすることに気付きます。


悩むのは良いのですが、私もかおたんみたいに自分にとって本当に切実なことだけ悩んでいたい。贅沢なような悩みですが、そうでもしないとただでさえ神経が散漫になる性質なので、何かしら本当に「自分にとって、今やるべき事」という目標を見つけて、そこに向けて神経を集中させたいのです。どうでも良いことばかりに板挟みになり、しかも私自体腰が据わっていない性質なので、色んな人の意見に振り回され、最後はとうとう心療内科に通院するハメになった……のが今年の二月頃の出来事です。この事に関しては私は、私自身を振り回した周りの人達は、基本的に愛おしい人達ですが、同時に同じぐらい煩わしい人達だとも思っています。愛と憎しみは共に等価に存在するのです。



もう自分自身に病んで負けるのは嫌なので、まずはすべてを懐疑することから始めます。とはいっても基本的に疑り深い性質なのでその辺は大丈夫だとは思っていますが、ニヒリズムと掛け合わせることによってそれをより強固なものへと転化させようと企てております。


例えば、2012年の今年の漢字に「絆」が選ばれました。一見するとみんな協力して頑張っていこう、いとおしい故郷、いとおしい友人、いとおしい家族、そんな繋がりを大切にする言葉だと一般常識では捉えられています。しかし私はあえてこの「絆」という言葉に懐疑の視線で捉えています。人は何かにすがりたいとき、その対象を求めようとします。


しかしそれが本当に「愛」から来ている感情なのでしょうか!? ハッキリ言おう、それは絆を求めようとする人間の身勝手な都合でしかないと!!!!!11 誰もが唯一無二に絆を追い求める訳ではありません。誰もが家族の絆を、友人の絆を、故郷の絆を、本当に愛おしく思っているのでしょうか!? 答えは断じて否! 断じて否!


例えば家族に裏切られた人がいたとしましょう、例えば友人に裏切られた人がいたとしましょう、例えば故郷に裏切られた人がいたとしましょう。果たしてその人達が同じように考えるでしょうか? 人は見ず知らずの内に身勝手な人間になっているのでしょう。もちろんこの私も、そしてこのたれながしている文章も身勝手な文章であります。しかし、それでもハッキリと言いましょう、みんな同じ「絆」を求めていると思うのならそれは全くの幻想だと! 


この他にも、この手の人達が好きそうなコミュニタリアリズムには、正直にいえば明確な敵愾心があるのですが、このことに関しては別の機会に書くとしましょう。



次にすべてを無価値とすることへと進みたいのですが、今すぐ全部すべてを無価値に思えるように進むのは、いくらなんでも性急すぎて私には無理です。よってまずはハッキリと「どうでもいい」と思えることから無価値だと思うように心がけたいと思います。たとえば景気の話や経済の話を聞いて、詳しいことを勉強して折らず分からないまま一喜一憂するのはハッキリ言って時間の無駄です。それならば自分の優先事項や自分のやりたい事を優先するのが先であると私は思います。最終的には、フリードリヒ・ニーチェがいうところの永劫回帰に……まで行けるわけがないので、ある程度妥協したら先に進んで、自身の価値観を選択して再構成していきたいと思います。



とりあえず、私は今目前にある自分がやりたい事、ラノベや哲学やラテンアメリカ文学といった読書や、えろげプレイや、アニメ視聴や、小説書きに邁進していきたいと思います。如何なる方向へと進もうが、良い悪いも無く、ただ道がずっと……ずっと……続いていく。どの道に進むかはその人次第で、周りの人達にどう言われようが進む道を選ぶのはその人なので、最終的にはその人が選ばなければなりません。


ここでたまゆらに戻りましょう、彼女達も自分の進みたい道を決めて、迷いながらも、途中で躓きながらも、それでも一生懸命進んでいるではありませんか!! 私も自分の進みたい道を進んでいきたいと思います。進みたい道に進む人達にサイオー=ホースあれ!

ぼっちとして生き残る為に、ブログを書きましょう

The Revolution Will Not Be Jacked-in - 青色2号
http://d.hatena.ne.jp/murashit/20100802#1280724672

まずむらしっと先生(id:murashit)のエントリを貼ったところから始まりました。ではみなさん、ここにはじめてのそれなりのエントリを書きたいと思います! そう、ブログは書かねばならないのです、書かねば意味がないのです。


世には、リア充とぼっちという対立項が(私的には、更に似非リア充混ぜての三すくみ状態が正しい状態だと思う)ありますが、こんなブログを読んでいる貴方はきっとぼっちサイドの人間なのでしょう!(ひどい決めつけ) むしろリア充がこんな辺境のブログを読んでいる訳がない! 俺の妹がこんなにヤンデレな訳がない!(関係無い) 前振りが長かったですがつまりは、ぼっちならばブログを書こう! ということが言いたい訳です。リア充からのネットサービスへの侵略から己を守るには、己のサイバースペースを確保するのが一番利口であると、私はここに提唱します!


それにしてもこの私の文章、はてダと比べるまでもなく、文章がぼろぼろだったり、繋がりがおかしかったり、もう色々とダメな発想をしていたりするのですが、それもこれも「たれながし」だから! そう脳内のすべてをはてなブログにそのまま直にたれながしてしまえばいいのです!!1 というか現在11時半の眠気ふらふらの目ショボショボの体クタクタの相当満身創痍の状態で書いてるのですが、こういう状態こそ、文章に魂がやどるのです!! と私らしくないことでも言ってみたり。


話を戻すと、リア充vsぼっち戦線において解決法は二つあり、ひとつはコミュニタリアンが好きそうな「コミュニティの流動化」があり、これははてダのブログにて書くつもりの『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』に対する簡易的な批判のエントリで述べるとします。そしてもう一つは「非干渉のスペースを形成」することであり、これがザックリいえば「ブログを書く」ことなのです!


「えー、今更ブログなの?」と思う方もおられると思うのですが、今更だからこそのブログなのです。今更だからこそリア充に侵略される可能性が極めて低い! ぼっちがぼっちでありぼっちであるがゆえのぼっちのためのブログなのです!!また人間が生きていく為には、どうしても承認欲求が必要となってきます。その理由を説明するのはめんどくさいんで端折りますが、とにかくぼっちの最終戦線において、生き残る為には自衛策が必要で、その為のブログなのです! 株式会社はてな万歳!(はてなから見たらハタ迷惑だけどな)



「でもむらしっと先生もリア充だと思うんだよお兄ちゃん」
あああうううううっっ!!!! そ、それを考えてなかった。そうか、敵は思わぬ所にいたのだ!!!! 自転車で各地を回り、その土地土地のワイフたちとリア充ライフを送るイケメンリア充のむらしっと先生にサイオー=ホースあれ!

はてダのニヒリズムエントリをたれがなしてみた

そういえば最近、ニヒリズムに目覚めました。まぁ日本語にすると虚無主義ってやつですね。


まず、11月のあたまくらいにこの記事に出会いました。

就職できない学生は3分面接すれば充分に分かります。
http://amiens2009.tumblr.com/post/6435818578/3

そもそも大学行ってない時点で問題外なのかもしれませんが、企業でやっていけないという違和感は私の中で常につきまとっていたので、上記のURL先に書いてあることと方向性は若干異なるのですが、要はリア充が強者であり搾取する側で、非リア充が弱者であり搾取される側だということが分かりました、むしろ今まで気づかなかったのか、もしくは気づいていたのに見て見ぬふりをしていたのか、それは定かではありません。


次は11月15日に、この記事の問題を解いてみました。

問題:バットとボールはセットで1ドル10セントします。バットはボールより1ドル高いです。ボールはいくらですか?


思考停止する人間の脳、「バットとボールはセットで1ドル10セントします。バットはボールより1ドル高い。ボールはいくらですか」:カラパイア http://karapaia.livedoor.biz/archives/52047106.html

ここで私は、2分ぐらい考えた結果「ボールは10セント」と回答しました、もちろん間違いでした。即効で答えて間違ってたら兎も角、考えた末に間違ってるってどーゆーことですか。しかもブコメというかツイッターでもこんなツイートあったし。
twitter:132770162163204096:detail
で、ですよねー……ハァ、もう引き籠もりたいわ。まぁその前にも、簿記の勉強で、過去問第三問の残高試算表を書く時点で非常に単純なのに重大な計算ミスを犯した辺りで、私の計算能力はアレだということが分かっていたので、むしろ照明終了してしまったという感じです。おっかしーなー、バイト先でも結構計算ミス多発したりするし何か変だなーと思ったら、根本的なさんすう能力からしんでるのか。もういやだ引き籠もりたい。


つまりは、まぁ、なんというか……

        *'``・* 。
        |     `*。
       ,。∩      *    もうどうにでもな~れ
      + (´・ω・`) *。+゚
      `*。 ヽ、  つ *゚*
       `・+。*・' ゚⊃ +゚
       ☆   ∪~ 。*゚
        `・+。*・ ゚

って感じですね。


ストレスで滅多打ちされた挙げ句、体重の増加ペースはマッハで、六ヶ月換算でプラス10キロというえらいことに。その上に根本からぶっ壊されるような出来事に遭遇して、しかも治らない! どうやっても計算ミスを多発する問題が治らない! もうだめだ諦めるしかない! と思ったので、その後は簿記の勉強もブン投げて、睡眠時間も平日平均3時間ぐらいに削って、自分のやりたい事をやろうと決めたので、そこから普段以上に読書に励むことにしました。あ、一応日曜に14時間とか寝てますから体の方は大丈夫です!!11


そこで読書をして目に入ったのがニーチェ入門という本で、これが私の運命の出会いだったのかもしれません。本を読んでいき、ふと永劫回帰に関して目に入りました。永劫回帰とは、生まれ変わっても同じ時間に同じ場所で同じ行動をしているという考え方です。生まれ変わっても同じ行動をしてるんだったら、あれじゃね!? 自分のやりたいように生きてやればいいんじゃね!? って気づいたのです。まぁあれです、自力でも何とも出来ない、救済を求めても無駄だということならば、尚更自分のやりたいように生きるしかない、しかも後ろ向きな意味で。これを弱さのニヒリズムって言うのでしょうか、まぁそうかもしれない。


しかしあれです、結局のところ誰も信じられない上に、自分すら信じられなくなったら、ニヒリズムに走る以外手立てがなく、壊れてしまうので、自分なりの生存戦略かもしれませんね。しかしあれだ、ニヒリズムって楽だわ、だってすべての問題を他者に丸投げできるんだし。


追記(20111206):
でもあれだ、サイオー=ホースって言葉もあるんだし、善悪限らず、すべての価値観や出来事が、サイオー=ホースであるんだよな。何事にも意味を成さないということは、良い出来事も悪い出来事も意味を成さない、そういう意味を踏まえてのサイオー=ホース。