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たれながし

なんかあれだ、ダダ漏れとかそんなレベルじゃない、なんか色々ヤバイ、マジヤバイ

持ちうる力を出し惜しみするのは罪なのか?

持ちうる力を(すべてとは言わないが)出し惜しみをするのは罪か? とふと考えた。


きっかけは氷菓で奉太郎が千反田に導かれて、様々な謎を解いていくことになることから。一見この流れ自体に疑問を覚えるところは無いように思われる。しかし私には「氷菓」につづく「愚者のエンドロール」にまで奉太郎が付き合い続ける道理は無いと思うのだ。しかし彼は「愚者のエンドロール」にまで付き合った、それは良いとしてもそこで断る、つまりは出し惜しみすることも出来たのだ。


ここで氷菓を例えに出すのを一旦止めたいと思う。理由は「出し惜しみすること」が論点になるのではなく「奉太郎の考え方」が論点になってしまい、結果本来求めたい答えとは違う答えがでてしまうからだ。では、本当に「出し惜しみ」することが「罪」なのか? 様々な角度から、できればザックリと検証していきたいと思う。

■持ち得ない人間から、持ちうる人間が出し惜しみしてるのを見た場合
→きっと「自分に無い力を、何故出し惜しみしているのか?」と腹立てるだろう
■持ち得る人間が、何故出し惜しみをするのか?
→出しても得なことがない、逆に出すことで問題が発生する、本当に力を出し切れるか保証ができない、等々…理由は様々だ

ここで強引に出たアイディアをまとめると、困っている人間に対して手を貸さないことの不誠実さと、持ち得る人間がその力を発揮したことで逆にマイナスの出来事が起る恐れ、このふたつが対の問題になるのだろう。更にここから論点を噛み砕いてしまえば「ある種のノブレスオブリージュは、どの範囲まで適応されるのか?」ってあれ? 要約したら更に分かりづらくなったぞ……? ええと……簡単にいえば「助けられる人を、どれだけ助けるのか?」という問題である。


ここで正義論の代表格である……と個人的に思ってる作品群であるFateシリーズの登場人物で、この例に当てはめると、衛宮士郎は「助けられる人は、すべて助ける」方法であり、その義父の衛宮切嗣は「できるだけ助けられる人のみを助けるが、多を救うために少を切り捨てる助け方をする」方法である。



さて、これらの例をあげて「あくまで常識的に」解を出すなら「持ちうる人が出せる力/助けられる量」によって決められるべきだというのが私の意見だ。つまりは「己の力量と、その場の状況によって、常に適切に判断せよ」ということである。もちろん、その助けられる側に助ける為の道理が通ってなければ断ることも可能だ。*1


もちろんこれらの例は、飽くまで「正義」を例にしている。よって正義によって判断はしないという態度を取るのなら、どんどん出し惜しみしていってオッケーだ。「ハァ、何でそんな誰も得にならんことをしなければならんわけぇ???」という態度を取っても構わない。もちろんその行動に自分自身が責任を持ちきれるのであれば……の話だが。
 

*1:個人的には「愚者のエンドロール」の場合、助けられる側が助ける側に対しての最低限の誠意も示していないどころか、チャットでの「頼りにはなんないけれど、使い方によっちゃ踊ってくれるのがいるわ」という言葉を鵜呑みにして行動するぐらいなので、むしろ断罪されるべきだと思うのだが。